[心祝い]

 奥州筆頭、御帰還。
主を取り戻した伊達の領民は安堵し、一旦は反旗を翻した者たちも、豊臣の謀略と猛攻を退けた凱旋に、頭を垂れるほかなかった。
 弦月の前立ての兜を失っても昂然と擡げられた頭、その背後を守る竜の右目、そしてつき従う者たちが二人に向ける眼差しを見れば、失うに勝るものを得て戻った事を、疑いようがなかったからだ。
 無事の帰還を祝い、または畏怖から、或いは期待から、届けられ詰まれた数々の贈り物。
黄金造りの鞍や、貝桶、螺鈿や銀を刷いた刀、磨き抜かれた鏡。甲斐絹は武田からだろうか、上杉からは酒樽。
それらに埋もれて、当の政宗本人は、余り表情を変えずに、それらの贈り主の名を書かせ、答礼の品のあれこれを決めていた。
 戦が終われば、政務が待っている。
軍神と一時的に手を結んで保たれていた均衡も、残務が終わればまた元通り。
 祝いの品の幾つかは、自筆での返書をつけてやらねばならず、呻きを噛み殺しつつ筆を動かしていたが、段々と、その手元が乱れてくる。
 もう何通目か、最初に書いた文字と、書き終えた時の文字の差が、指の長さ半分程も違ってしまったことに気づいた時、背後に控える男が、声をかけて来た。
「一息入れられますか、政宗様」
 聞き慣れた声。
まずは目を閉じ、政宗は耳の中のその音を、そっと転がす。
 小十郎の声。穏やかで、気づいた時にはもう耳に当然の響きとなっていた、日々の音。
自分の名を呼ぶその声の大事さは、当然、知っているつもりでいた。
長く、本当に長く二人離れて、それが、漠然と想い描いていた、想像の半分でしかないと、身に染みた。
「――政宗様」
 名を呼ぶ声。いつかは失うかも知れない、という覚悟であった筈だが、常に分かっている心算でいただけのことだった。
限りない安堵をもたらす声。
自分の前に並べられた、数々の高価な品に、遥かに立ち勝る男。
掛け替えのない皆の中でも、比肩しようもない一人の発する声が、如何に大事だったか、短い呼びかけに思い知らされる。
 何度もなんども、繰り返し、揺りかごが揺らされるように、その声が、自分を包んで守ってくれていた。
その声のないままに起って、鼓膜にない響きを取り戻すのだと戦った。
「政宗様――?」
 戦いぬいて、馳せ戻ってきた小十郎を見、その声が鼓膜を再び打った時に、何もかもが己の中に還って来た、そう感じた。
己の天地の始まりの音。童ではなくなり、生き抜く男となり、人の頭となった時に、最初に、真名で呼ばれて誇らしかった相手。
 いつかは一人で進まねばならない覚悟を、少しは先に延ばせた。
先に進むも、果てるも共にだ、と、誓った相手が、今も傍らに居る。
この幸せが全ての不幸に勝る。数ある名器家宝よりも大事な、時のくれた財なのだと、腸の中に酒よりも熱く落ちてくる。
「――どうなされました」
 背中に、熱源が生じる。額に、大きな掌が当たった。
仕方なし、筆を置いて、左斜め上を仰ぎ見る。
「お加減が――」
「どうということもねえ。案ずるな、小十郎」
 過保護と言う程ではないが、戻ってから、以前にもまして、小十郎の目は鋭くなったように思う。
再会してすぐに、身を翻した時の小十郎の目には、抑えきれぬ怒りが雷雲となり宿っていた。
その怒りが向いた先から消えれば、ただ、全てを慈しむような柔らかい光が残されて、今は、ぼやけた鏡のように何処となく物憂げな政宗の姿が映っている。
 袖越しの熱が増した。引き寄せられたのだ。
眼差しは穏やかなままなのに、まるで、下帯まで剥かれて全て見通されたようで、身が強張る。
安心させるように、小十郎は己の利き手を、政宗の左手に重ねて来た。
「――でしたら、宜しゅうございますが」
 そう応じながらも、温もりはなかなか、互いから離れようとはしない。
長い不在。政宗の背中が虚しくあり続けたのと同じだけ、小十郎も日々を、暗い石壁を睨み据えて耐えぬいた。
互いにやっと、夜を隔てず、同じ場で同じ時を刻んで生きられるようになったのだ。
 小十郎の目の中の政宗が、どちらも瞬いた。
思わず、掌で目元を擦る。さっ、と、離れた手が手拭いを掴んで戻り、丁寧に目頭を拭ってくれた。
「本当に、今日はお疲れなのでは――」
 滅多に泣いたりすることはない主の目に、僅か滲んだ雫を測りかねて、小十郎が、手拭いをしまうと、手を右頬に当ててくる。
帰る途中に回復したと言っても、何かあれば、と、根を詰めていたのは政宗より小十郎の方だろう。
「お前こそ、そう気を回し過ぎるな。眉間の皺が、齢を食う前に取れなくなっちまう」
 お返し、とばかり、政宗は手を伸ばし、男の額を指で撫でる。
そうして手を下ろそうとすると、頬から離れた手が、そっと手首を握ってきた。
知らずしらず、同時に、長い溜息を洩らす。
 政宗の瞳に映った小十郎も、その逆の政宗も、互いの発した音に気づいて瞬き、やがて、鈍い苦笑までも鏡に映したように浮かべていた。



 胡桃と味噌を擂り潰した餡で包んだ餅で一服した後、政宗の手は、持って来られた品々を何となし弄んでいた。
目貫の辺りに、精巧な螺鈿細工が施してある脇差は見事なもので、下賜すれば喜ぶ者も大勢いそうだが――
一番に遣りたい相手に目を向ければ、視線だけでそれと理解し、首を横に振られてしまった。
 間者を警戒しながら、自分が囚われた事を責として、一切の加増や褒章を受けないと、小十郎には言い切られてしまっている。
何を言ったところで、無駄だと分かっているから首肯したものの、何かはしてやりたい。
 心祝い程度と言ったとしても、このままでは小十郎は受けてくれない。
囚われて生きていたばかりか、牢を開けたのが真田の忍びであろうとも、小十郎はほぼ自力で脱出し、西海の鬼が部下を取り戻す手助けさえしたというのに。
 俺が天下を取る以外に、お前にしてやれることがあったっていいだろうに。
そう思っても、政宗の心を良く知る男は、再び首を横に振る。
「――なあ、小十郎」
 脇差を一旦元の位置に戻した政宗は、刀を扱っている間は正していた膝を崩して座った。
小十郎は常と変らず、刃の及ばない位置に畏まる。
「は」
 小十郎がいない間も、俺は、皆に囲まれていた。小十郎は、一人だった。
手荒な扱いは受けていなかったと言ったが、相当に堪えたのは間違いない。言葉を慎重に選んだ。
「嫌な事で済まねえが――お前が大阪に居た時な」
「何なりと」
 囚われていた、とだけは言いたくなかった。小十郎が手も足も出ない筈がない。閉じ込められれば、逆に鋭敏になる男だ。
無為に過ごしていたら、一時でも屈していたら、あんな風に馬を走らせては来なかった。
「割と使える奴とか、話せるのはいたのか?」
 敵と通じるのは、不忠を疑うことにもなるが、小十郎に関してだけは、有り得ない。
ただ、他の誰かと一緒の時には聞けなかった。
「――豊臣軍も、一つの目的に邁進する男たちの軍で御座いましたゆえ。この小十郎は、伊達軍以外に身を置く気は御座いませぬが、決して、彼の軍の威容を安く見てはおりませぬ」
 正直な返答に、安堵する。
優れた点や策の数々は、小十郎が、今後、伊達軍へと伝えるべきところを伝えてくれるだろう。
こいつは豊臣の軍師が欲しがったほどの男だ。色々見せられただろう。逆に、感銘を受けた奴だって居たかも知れねえ。
 豊臣軍はまだ他にも宿将が居たから、そう簡単には瓦解しないとしても、大将を欠いて、抜ける奴だっているだろう。
そいつらの中で、もし、竜の右目を男と認める奴がいたら。此処まではるばるやってくるなら。
「……もし、お前が顔や名前を覚えてる奴で、困ってお前を訪ねてきたりとかしたなら、伊達軍に入れてやれよ」
 無言で、自分の右目が自分を見つめている。
意図を測りかねているのだろうか、政宗は仕方なし、言葉を付け足した。
「俺が、そいつらの扶持くらい出してやる。――お前が見込むんなら、何処の出だろうと俺は気にしねえ」
 困ってやってきた連中を、放っておく小十郎ではない。
かといって、政宗に頼らずに小十郎自身の扶持で抱えようとしたら、加増も何もなしには、とても養えない。
これなら、誰にも何も言われず、俺が真っ先に、小十郎のすることを助けてやれる。
「――政宗様――」
 主の名を呼んだ男は、その言葉の意味を理解した瞬間、顔を引き締め、その場に平伏する。
この分では、付いてきていた者もいるのかも知れない。竜の右目の異名は、もう、奥州だけのものではないと思えば、寧ろ、当然のことのように政宗には思われた。
「何にも勝る御言葉、この小十郎、有難く承りまする」
 その間に、普段は二人に開いている刀一振りの間を、政宗は膝行して詰める。
動きに気づいて下がろうとする前に、相手の膝を片手で押えた。
「……だからな、小十郎。そう皺を作るなって」
 慌てて上げた顔の額を、再び、指先で撫でる。
困惑気味の男の目には、してやったりな笑みの自分が映っていて、そこには、一時の敗北や、苦い思いの翳りはもうなかった。
やっと、二人の日々に戻ってきたのだ。先程とは違う潤みが、心から目に昇って来ないように、深く息を吸う。
「これから新しい事始めようって時に、お前だけ老けこんだりするんじゃねえぞ、いいな?」
 年寄り扱いされかかって、流石に小十郎も内心面白くないかも知れないが、再び腕が、政宗を絡め取ってきた。
耳元に、唇と息が押しつけられる。互いの胸一杯に、日向と奥州の土の匂いが、溢れていた。
「政宗様――この小十郎、生涯、政宗様御一人にお仕えできますこと、何よりの宝に御座いますれば」
「……ああ」
 たまには俺が、先に抱きしめてやろうと思ったのに。お前が居てくれるだけで、俺には何にも勝る男だ、と言ってやろうと思っていたのに。
内心の不満を抑えるように、男の胴にしっかりと腕を回し、胸に顔を押し付ける様にして、政宗は目を閉じた。







kensakiさま、ありがとうございました。